大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

徳島地方裁判所 昭和50年(ワ)132号 判決 1985年7月03日

原告

冨永弘二

同兼右法定代理人親権者

冨永由喜夫

冨永君枝

右三名訴訟代理人

長谷部一美

西山司朗

末澤誠之

被告

沖津治

右訴訟代理人

小川秀一

饗庭忠男

島田清

主文

一  原告らの請求をすべて棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

理由

第一当事者及び医療契約の締結

一請求原因一(当事者)の事実は、当事者間に争いがない。

二原告弘二は、昭和四七年七月二九日午前二時一一分被告医院において、生下時体重一三〇〇グラムで出生し、直ちに保育器に収容され、以後被告の管理下に置かれたことは、当事者間に争いがない。右の事実及び弁論の全趣旨によると、右出生直後に、被告と原告弘二の法定代理人たる原告由喜夫、同君枝との間で、被告が原告弘二を保育診察することを目的とする黙示の医療契約が成立したものと認められる。

第二本件医療事故発生とそれに至る経緯等

一請求原因二1の事実は、当事者間に争いがない。

二<証拠>を総合すると、原告弘二の被告医院における臨床経過及び退院後の状況は次のとおりであつたことが認められ<る。>

1 原告君枝は、妊娠四筒月の中ごろである昭和四七年四月一七日(以下二の1ないし6につき、「同年」を省略する。)以降被告医院で通院による診察を受け、これまで分娩歴はなく、自然流産三回、人工妊娠中絶一回を経験していたため(これと異なる原告富永君枝の本人尋問の結果は信用しない。)、被告から流早産を防止するために、黄体ホルモンの投与を受け、また、日常生活上、下腹部に無理が掛からないようにと注意されていた。しかし、七月二三日に下腹部痛を訴えて翌日被告医院に入院し、同月二八日午前三時破水し、同月二九日午前二時一一分原告弘二を在胎約二九週で分娩した(分娩の時・所などについては当事者間に争いがない。)。当時、被告医院は、医師一名(被告)、助産婦一名、産科看護婦三名、准看護婦二名、看護婦見習二名で構成されていた。

2  原告弘二は、出生直後、第一啼泣は大きかつたものの、二、三回泣いた後明らかに顔面にチアノーゼが現われたため、被告は同原告を直ちに保育器(サンリツST一五〇〇)に収容し、その後二四時間内は、六〇分ずつ三、四回にわたつて毎分約二リットル(右保育器に表示された濃度換算表((以下「濃度換算表」という。))によれば、その場合の環境酸素濃度は二九ないし三二パーセントである。ただし、被告が昭和五〇年一一月一三日に三〇分酸素を流した後、酸素濃度計で測定したところによれば、その場合の環境酸素濃度((以下「実測濃度」という。))は二七パーセントであつた。)、それ以外は毎分約〇・八五ないし〇・九リットル(濃度換算表では二五ないし二八パーセント、実測濃度では二三パーセント)、生後二日目、三日目(生後二四時間以降七二時間まで)は、三〇分ずつ三、四回にわたつて毎分約二リットル、それ以外は毎分約〇・二八リットル(濃度換算表では二二パーセント、実測濃度では二一パーセント)、生後四日目ないし七日目は、毎分約〇・一七リットル又は約〇・二六リットル(いずれも濃度換算表では二二パーセント、実測濃度では二一パーセント)の酸素投与を行なつた。そしてこの間生後一日目から三日目までと五日目に時折り顔面にチアノーゼが現われる状態であつた。

3  被告は、八月五日(生後八日目)から九月一三日(生後四六日目)までは毎分約一〇〇気泡(毎分約〇・〇三ないし約〇・〇三七リットルに相当する。濃度換算表及び実測濃度のいずれによつても二一パーセント)の酸素投与を行ない、同年九月一四日(生後四七日目)には、原告弘二が収容されている保育器内に出生時体重二二二〇グラムの新生児一名も一緒に収容したため(この状態は原告弘二が保育器を出るまで続いた。)同日から同月一六日(生後四九日目)までは毎分約二五〇気泡(毎分約〇・〇九六ないし約〇・一二一リットルに相当する。実測濃度では二一パーセント)、同月一七日(生後五〇日目)から原告弘二が保育器を出た同月二八日(生後六一日目)までは毎分約二〇〇気泡(毎分約〇・〇七六ないし約〇・〇九七リットルに相当する。実測濃度では二一パーセント)の酸素投与を行なつた。このように、原告弘二にチアノーゼが見られなくなつてからも微量の酸素を投与し続けているのは、右保育器が強制対流方式であつたため、処置窓を通して看護措置をする際外気の酸素が流入するにしても、保育器内の未熟児の呼吸に伴ない、次第に一般大気中の酸素濃度よりも低下していくのではないかと被告が懸念したことによるものであつた。また、九月一四日に他の新生児一名を原告弘二の収容されている保育器内に一緒に収容したのは、被告医院には保育器が一台しかなく、当時右新生児は胎齢九筒月初め、体重二二二〇グラム、原告弘二は胎齢九箇月終り、体重一九九〇ないし二〇〇〇グラムで似通つており、両名とも呼吸障害もなく、感染を引き起こす状況にもなかつたし、過去にも八筒月で出生した二卵性双生児を同一保育器内で養育して特に問題を生じたこともなかつたことによるものであった。

4  原告弘二の黄疸は、イクテロメーターによる数値が新生児に通常見られる生理的黄疸よりもやや高い程度で、核黄疸の兆候は認められなかつた。原告弘二の収容された保育器内の保温等の状況は、低体温防止のため、特に出生直後から数日ないし一週間くらいまでは高温、高湿に保たれ、例えば出生直後は摂氏三五度ないし三八度、湿度九〇パーセントであつたが、その後の状況は診療録等からもうかがい知ることはできない。しかし、そうした中、原告弘二の体温は、生後一日目から七日目まで順次、摂氏三八度ないし三八度五分、三八度、三七度五分、三七度二分ないし三七度五分、三七度ないし三七度二分、三七度、三七度と発熱状態を示したが、それ以後は異常は認められなかつた。

5  一方、原告弘二に対する栄養補給は、生後三八時間目から鼻腔栄養方法によつて開始され、最初は四時間置きに、生後三日目以降はおおむね三時間置きに、一回につき、五CCから始めて順次増量し、生後七日目には二〇CC、一五日目には三〇CC、二四日目には四〇CC、三四日目には五〇CC、四九日目には五五CC、五九日目には六〇CC、六二日目には七〇CC、六五日目には八〇CCという具合に補給された。なお、鼻腔栄養は、生後六一日目に経口授乳に変更された。そして、原告弘二の体重は、出生後生理的体重減少を経て七日目に生下時体重と同じ一三〇〇グラム、一九日目に一三九〇グラム、三二日目に一六二〇グラム、三五日目に一六七〇グラム、四一日目に一八五〇グラム、四七日目に一九九〇グラム、五四日目に二二二〇グラム、五九日目に二四〇〇グラム、六二日目に二五五〇グラム、六五日目に二七〇〇グラム、六九日目に二八〇〇グラムと増加して、一〇月七日(生後七一日目)に二九〇〇グラムで退院した。

6  原告由喜夫、同君枝は、一一月中ごろ、原告弘二の眼の異常に気付き、一二月七日、八日、徳島大学医学部附属病院眼科で診察を受けたところ、本症に罹患していて手遅れであると説明を受け、同月一一日には兵庫県西宮市内の仁眼科で診察を受けたが、本症に罹患しており、かなり悪いけれども光凝固を受ければ少しは良くなるかもしれないとの説明を受けて、その後再び徳島大学医学部附属病院眼科のほか、兵庫県立こども病院や、天理よろず相談所病院、東京都立駒込病院などに通院したが、結局失明していて手遅れであるということで、光凝固法の施術を受けずに終わつた。

三原告弘二が罹患した本症の病態(後記Ⅰ型かⅡ型かの区別)

<証拠>によれば、昭和四七年一二日二七日に徳島大学医学部附属病院眼科の布村元医師が既に失明状態になつている原告弘二の両眼を診察したところによると、両眼とも網膜が全周剥離していたので、Ⅱ型であつたと推定できるというのであるが、他方、<証拠>によれば、本症の研究者である植村恭夫は、既に剥離を起こした症例がⅠ型によるものかⅡ型によるものかについては、活動期病変の過程を観察しない限り分からないと述べており、成立に争いのない乙第一六六号証によれば、厚生省特別研究費補助金昭和五七年度研究班は、「赤道部より後極側の領域で全周にわたり未発達の血管先端領域に異常吻合及び走行異常、出血などが見られ、それより周辺は広い無血管帯領域が存在する。網膜血管は、血管帯の全域にわたり著明な蛇行怒張を示す。以上の所見を認めた場合、Ⅱ型の診断は確定的となる。」と報告しており、やはり活動期病変の観察がⅡ型診断の決め手となることを明言していることに照らすと、活動期病変の観察の行なわれていない原告弘二の本症罹患については、それがⅠ型によるものかⅡ型によるものかは不明であるといわざるを得ない。

第三本症について<省略>

第四被告の責任

一医師の一般的注意義務

医師は、人の生命、身体の健康の維持、症状の改善を目的とする医療行為に従事するものであつて、右目的達成のため、当時の医学の実践における医療水準に基づき、最善を尽くすべき注意義務があるものというべきである。そして、医師の義務違反の基準となる右の医療水準は、当該医療行為がなされた時期において、当該医師の専門分野、当該医師が置かれた社会的、地理的環境等を考慮して、具体的に判断されるべきである。

二本件当時(昭和四七年)における本症に関する知見

1  <証拠>を総合すれば、次の各事業を認めることができ<る。>

(一) (眼科界)

(1) 本症の発症

本症は、高濃度の酸素を長期間投与された未熟児に発症することが臨床経験により明らかにされ、昭和四〇年代初めころまでは保育器内酸素濃度を四〇パーセント以下にすれば本症の発症は防止できると考えられていたが、植村恭夫らにより、酸素濃度を四〇パーセント以下に保つた場合や酸素を全く使用しない場合にも本症が発症することから、なお酸素濃度は四〇パーセント以下にすべきことを原則としつつも、未熟児に呼吸障害やチアノーゼが認められなくなれば、本症の予防のため、眼底所見を確かめつつ酸素濃度を下げていくべきこと、本症の発症は、環境酸素濃度よりも網膜の動脈血酸素分圧(PaO2)と相関関係があるので、これを一〇〇mmHg以下に保つのが望ましいが、その経時的測定は容易ではなく、昭和四七年当時これによる酸素管理をしている病院は少なかつたこと、本症は眼底の未熟性を素因とするもので生下時体重一五〇〇グラム以下、在胎三二週以下の未熟児に多く発症すること、本症は自然寛解率も高いことが報告され、未熟児の眼科的管理の重要性が強調されるようになつた。また、本症の病態については、オーエンスなどの分類に基づき、段階的経過をたどるものと考えられていたが、昭和四六年ころから、急激に進行するⅡ型の症例が報告され始めた。

(2) 眼底検査

昭和四〇年ころから、植村恭夫らにより酸素投与のモニターとして眼底検査の有用性が説かれていたが、永田誠らは、昭和四三年及び同四五年に、本症に対する治療法として光凝固法を施行した事例を報告し、適切な時期に光凝固を行なえば確実に本症の進行を停止せしめうるとして、そのためには眼科医が生後一箇月から三箇月までの最も危険な時期における網膜周辺部の観察を行なうことが必要で、その際直像鏡のみによる眼底検査で満足してはならないと述べ、臨床医のうちでまだ眼底検査に対する認識が十分でないことを指摘した。そして、後記(3)の各地の医療機関で光凝固法が実施されるようになつたのに伴い、眼底検査も普及していつた。

(3) 本症の治療法としての光凝固法

(ア) 昭和四三年四月、永田誠らは、本症の活動期の症例二例に対し、オーエンスの活動期Ⅱ期からⅢ期へ移行した時期に光凝固を施行したところ、頓座的に病勢を停止させることができた旨報告し、光凝固が本症の有効な治療法となる可能性のあることを示唆した。

(イ) 昭和四五年五月、永田誠らは、光凝固を施行した四例の追加報告を行ない、前記報告の二例と併せて六例における治療経験から、重症未熟児網膜症活動期病変の大部分の症例は、適切な時期に光凝固を行なえばその後の進行を停止せしめ、高度の自然瘢痕形成による失明又は弱視から患児を救うことができることはほぼ確実と考えられるようになつたと報告し、この治療法を全国的な規模で成功させ、我が国から本症による失明例を根絶するためには幾多の困難な事情が存在する旨述べ、その施行のための病院内の態勢を整えることや、病院間の連絡を密接にする必要があることを指摘した。

(ウ) 昭和四五年一一月、永田誠は、本症の病態、眼底検査及び光凝固の方法等につき、総括的な説明を加え、現在光凝固装置は既に相当台数全国的に設備されているので、これを各地区ごとのブロックに本症治療のネットワークを作れば、本症による失明例を根絶することも夢ではなく、そのためには眼科医、小児科医の熱意と行動力が必要であると述べた。

(エ) 昭和四五年一二月、植村恭夫は、本症の総括的報告を行ない、最近各地で光凝固法による治験例が出されており、この方法によつて、本症は早期に発見すれば失明又は弱視にならずに済むことがほぼ確実になつたとし、光凝固装置はかなり高価な機械であり、これを備えている病院はわずかなものであり、未熟児を取り扱う医療関係者は、未熟児施設に是非これを備えるよう要望すべきであると述べている。

(オ) 昭和四四年ころから、全国各地で光凝固の追試を試みる病院が出始め、本件当時(昭和四七年)までに、関西医科大学附属病院、名鉄病院、県立広島病院、九州大学医学部附属病院、鳥取大学医学部附属病院、兵庫県立こども病院、名古屋市立大学医学部附属病院、国立大村病院、松戸市民病院、国立習志野病院、大阪北逓信病院等において光凝固法が施行され、昭和四六年四月以降その追試結果が続々と報告された。そして、実施時期、凝固部位等については、各自がそれぞれの主観的判断に基づいて施行している状況であつた。

(二) (産科・小児科界)

産科・小児科の専門文献においても、本症は生下時体重一五〇〇グラム以下、在胎三二週以下の未熟児に多発すること、保育器内酸素濃度は必要以外四〇パーセント以内にとどめることを要するが、これ以下でも発症例はあること、定期的眼底検査ないしPaO2値の測定による酸素コントロールが望ましいこと、適期に光凝固法を実施することで、本症に対する良好な治療成績が得られていることなどが報告、紹介されていた。

2  本件当時の被告医院の近隣における眼底検査及び光凝固法の実施状況等

<証拠>によれば、以下の事実を認めることができる。

昭和四二年から徳島大学医学部附属病院眼科に成人の網膜疾病の治療のために光凝固装置が備え付けられていたが、昭和四五年二月に初めて、小松島日赤病院から本症に対する光凝固法施行の依頼があり、眼科の布村元医師が文献を探索しながら本症を担当するようになつた。昭和四七年ころ、徳島県内にはまだ未熟児センターと呼べるものはなく、また、徳島大学では未熟児に対する定期的眼底検査は実施しておらず、附属病院内の産婦人科や小児科から紹介があれば、その都度眼底検査を実施する程度の状況であり、徳島市内の産科開業医と徳島大学との間で眼底検査実施についての連繋もなかつた。徳島市内の眼科開業医が一般的に本症の存在を認識するようになつたのは、昭和四七年一二月一一日に同市内で開催された日医医学講座で本症の講演がなされて以降というのが実情であつた。そして、徳島市内の眼科開業医が、未熟児を受け入れた場合の本症に対する対策を協議し、本症の疑いがあれば直ちに徳島大学へ転送するとの申合わせを行なつたのは、昭和四九年末ないし昭和五〇年初めであつた。布村元医師は、昭和四九年度厚生省研究班報告が出るまで、主観的な診断・治療基準で試行錯誤的に本症に対し光凝固法を実施していた。昭和五一年徳島県内では、徳島大学に次いで徳島市民病院に光凝固装置が備え付けられた。

三被告の過失について

1  本症発症の予見可能性

被告本人尋問の結果によれば、本件当時、被告は、投与酸素濃度を四〇パーセント以下にとどめておれば、後部水晶体線維増殖症の発症はないと信じており、およそ未熟児に対する酸素投与の基準として、酸素濃度三〇パーセント以下の微量投与法を心懸けていたことが認められる。しかし、前記認定のとおり、本件当時、一般の産科開業医においても、本症は生下時体重一五〇〇グラム以下、在胎三二週以下の未熟児に多発し、酸素濃度が四〇パーセント以下でも発症例があることは知りえたというべきであるから、生下時体重一三〇〇グラム、在胎二九週で出生した原告弘二が本症に罹患する可能性のあることは予見し得たというべきである。

2  酸素投与上の過失について

前記認定のとおり、被告は、原告弘二の顔面に時折チアノーゼが現われた生後一日目から三日目までのうち、生後二四時間内は、毎分約二リットル(保育器内酸素濃度は、実測濃度で二七パーセント、濃度換算表でも二九ないし三一パーセント)を通算三、四時間、それ以外は毎分約〇・八五ないし〇・九リットル(実測濃度で二三パーセント、濃度換算表でも二五ないし二八パーセント)の酸素投与を行ない、続いて生後二日目及び三日目(生後二四時間以降七二時間まで)は毎分約二リットルを通算一時間三〇分ないし二時間、それ以外は毎分約〇・二八リットル(実測濃度で二一パーセント、濃度換算表でも二二パーセント)の酸素投与を行ない、いずれも原告弘二の出生当時一応の安全値とされていた四〇パーセントの範囲内にとどめている。また、生後四日目以降六一日目までは、生後五日目に顔面に時折チアノーゼが現われた以外、特にそのような兆候はなかつたにもかかわらず、酸素投与を継続しているが、保育器内の酸素濃度が終始大気中の酸素濃度とほとんど変わらない程度の微量投与にとどまつておる上、右程度ならば、チアノーゼが現われなくなつたからといって直ちに中止するよりも継続した方がよく、また、原告弘二に使用された保育器が強制対流方式のものである点を考慮するとむしろ必要的でさえあるとする被告の供述に著しく不合理な点も見受けられない。これらの事柄及び前記認定のとおり本症発症の原因がなお明確でない現状に照らすと、被告の行なつた酸素投与は、なお医師の裁量の範囲内にあつたというべく、過失を認めることはできない。

なお、前記のとおり、昭和四七年当時、動脈血酸素分圧を経時的に一定限度内にとどめることは容易でないとされていたのであるから、被告がこれを測定しなかつたことをもつて過失があるとまではいえず、また、被告医院の近隣では、まだ定期的眼底検査は実施されていない状況であつたから、被告が眼底検査に関する措置をとらなかつたことにも過失があつたとはいえない。

3  全身管理上の過失について

前記認定のとおり、被告は原告弘二の低体温防止に特に意を払い、その結果、原告弘二の体温は生後一日目から七日目まで三七度ないし三八度五分までの発熱状態を示した以外、特に異常は認められず、また、<証拠>によれば、ホルトの体重曲線より求めた出生時体重復帰日数は、一三〇〇グラムの未熟児の場合、出生後約一五日であるのに対し、原告弘二の場合、生後七日目に早くも生下時体重に戻つており、その後も順調に体重増加を示し、生後七一日目の退院時には二九〇〇グラムにまで達したことに照らすと、この間の栄養(ミルク)補給状況にも特に不適切な点があつたとはいえず、その他問題となるような事柄も見受けられないから、被告に原告弘二の全身管理上の過失を認めることはできない。

4  眼底検査、光凝固法の実施ないしそのための転医義務懈怠について

被告本人尋問の結果によれば、被告は原告弘二に対し、眼底検査及び光凝固法に関し、何らの措置もとらなかつたことが認められる。

(一) 前記認定のとおり、昭和四七年当時、未熟児に対する眼底検査は、全国的にも、大学附属病院、国公立病院等の中で、一部の先進的医療機関において、光凝固法が実施されるようになつたのに伴い、主にその適応、実施時期の判定のために施行されるようになつていたという状況である。そして、被告医院の近隣地域を見ても、徳島市内の眼科開業医において未熟児に対し、眼底検査を実施していたような状況はうかがえず、徳島大学でも定期的眼底検査は実施しておらず、附属病院内の産婦人科や小児科から紹介があつたときにその都度眼底検査を実施していた程度で、産科開業医と徳島大学との間で眼底検査についての連繋体制もなかつたのである。そうすると、本件当時、全国的にも、また、被告医院の近隣地域においても、未熟児に対する眼底検査の施行は一般的な医療水準まで達していたとはいえない。したがつて、被告が、原告弘二に対し、眼底検査に関し何らの措置もとらなかつたことについて過失があつたということはできない。

(二) 前記認定のとおり、昭和四七年当時、光凝固法は、全国的にも、一部の先進的医療機関で実施されていたにすぎず、本症の診断基準、光凝固法施行の適期の判定も個々の医療機関において独自に行なつていた段階で、統一した判定基準もなく、また、Ⅱ型の存在が報告され始めて、本症の病態、治療の適応、適期の判定等につき混乱を生じてきたころである。そして、被告医院の近隣地域を見ると、昭和四五年二月から、徳島大学で、試行錯誤的に本症に対し光凝固法が実施されるようになつたが、徳島市内の眼科開業医が本症の疑いのある未熟児を同大学へ転送する態勢が出来たのは、やつと昭和四九年末ないし昭和五〇年の初めころである。そうすると、本件当時、全国的にも、また、被告医院の近隣地域においても、いまだ光凝固法は一般的医療水準に達していたとはいえない。したがつて、被告が原告弘二に対し、光凝固法に関し何ら措置をとらなかつたことについても過失があつたということはできない。

5  説明義務の懈怠について

被告本人尋問の結果によれば、被告は原告由喜夫、同君枝に対し、本症に関し何らの説明もしておらず、退院時に今後小児科を受診するよう指導したにとどまることが認められる。

ところで、医療行為の過程で一定の疾患が発生することが予見される場合、医療契約上の義務として、担当医師はこれについて患者ないしその家族に説明指導を加えなければならないことが一般的に認められるけれども、その内容は、原則として、一般的医療水準にある知見をもつて足りるというべきである。けだし、その義務懈怠により法的責任が問われうる以上、一般的医療水準に達していない知見についても、臨床医にその説明指導すべきことを原則として要求するのは相当でないからである。そうすると、本件の場合、眼底検査ないし唯一の治療法としての光凝固法は、前判示のとおり、本件当時いまだ一般的医療水準に達していなかつたから、被告には、原告由喜夫ないし同君枝に対し、本症に関し説明指導すべき法的義務はないといわなければならない。<以下、省略>

(裁判官以呂免義雄 裁判長裁判官上野利隆 裁判官田中観一郎は、転任につき、署名捺印することができない。裁判官以呂免義雄)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例